程畿・・・節度の高い蜀の人
彼は、初めは益州牧であった劉璋に仕え、漢昌県長となった。
ある時、巴西太守の龐羲は漢中の張魯に対抗するため、私兵を募集していた。
ところが劉璋に讒訴する者があり、劉璋は龐羲を猜疑するようになった。
龐羲は程畿の子である程郁を自らの配下としており、これを程畿の下に派遣して
救援を求めた。しかし程畿は「異心を抱いていないのなら、誠意を尽くすべきです」
と回答してこれを拒否した。また程郁に対しては、「私は州から恩を受けているから、
州牧のために節を尽くす。おまえは郡吏であるから、太守のために力を揮い、私の
存在を理由として異心を抱くことなきように」と諭している。
程畿の回答を聞いた龐羲は、次に別人を派遣し、協力しなければ程郁を殺すと脅しを
かけてきた。しかし程畿は、楽羊が子の羹を飲んだ故事を引き、大義に従うとして
重ねて拒否した。程畿の助力を得られないと悟った龐羲は、ついに劉璋に謝罪した
ところ、劉璋もこれを許した。後に、劉璋は程畿の振舞いを聞いて、これを江陽太守に
取り立てている。
]劉備が益州を支配すると、程畿は従事祭酒として登用された。蜀漢建国後の章武2年
(222年)、劉備が孫権征討に出陣すると、程畿もこれに随従した。蜀漢軍が夷陵の戦い
に大敗すると、ある者から「船を軽くすれば逃れることができましょう」と進言されたが、
程畿は「私は軍にあって、いまだに敵から逃走したことはない。主君に従い危地に見えながら、
そんなことができようか」と返した。程畿は船上で自ら戟を手にして追撃してくる孫権軍と戦い、
敵船をいくつか沈めたが、最後は衆寡敵せず戦死した。
彼は非常に節度の高い人物だ。三国志演義もそんな彼をどこかで讃えたかったのだろう。
最期の死の場面だけは忠烈な士として史実通りの内容で彼を描いている。
ある時、巴西太守の龐羲は漢中の張魯に対抗するため、私兵を募集していた。
ところが劉璋に讒訴する者があり、劉璋は龐羲を猜疑するようになった。
龐羲は程畿の子である程郁を自らの配下としており、これを程畿の下に派遣して
救援を求めた。しかし程畿は「異心を抱いていないのなら、誠意を尽くすべきです」
と回答してこれを拒否した。また程郁に対しては、「私は州から恩を受けているから、
州牧のために節を尽くす。おまえは郡吏であるから、太守のために力を揮い、私の
存在を理由として異心を抱くことなきように」と諭している。
程畿の回答を聞いた龐羲は、次に別人を派遣し、協力しなければ程郁を殺すと脅しを
かけてきた。しかし程畿は、楽羊が子の羹を飲んだ故事を引き、大義に従うとして
重ねて拒否した。程畿の助力を得られないと悟った龐羲は、ついに劉璋に謝罪した
ところ、劉璋もこれを許した。後に、劉璋は程畿の振舞いを聞いて、これを江陽太守に
取り立てている。
]劉備が益州を支配すると、程畿は従事祭酒として登用された。蜀漢建国後の章武2年
(222年)、劉備が孫権征討に出陣すると、程畿もこれに随従した。蜀漢軍が夷陵の戦い
に大敗すると、ある者から「船を軽くすれば逃れることができましょう」と進言されたが、
程畿は「私は軍にあって、いまだに敵から逃走したことはない。主君に従い危地に見えながら、
そんなことができようか」と返した。程畿は船上で自ら戟を手にして追撃してくる孫権軍と戦い、
敵船をいくつか沈めたが、最後は衆寡敵せず戦死した。
彼は非常に節度の高い人物だ。三国志演義もそんな彼をどこかで讃えたかったのだろう。
最期の死の場面だけは忠烈な士として史実通りの内容で彼を描いている。
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